あるクラスのある授業風景
著者:ラット


 夢を、私は見ている。

 それは、ほんの些細な夢。

 別段変わったことのない、些細な夢。


 夢を、私は見ている。

 それは、いつも望んでいる夢。

 現実から逃げたいと願う、願望の夢。


 夢を、私は見ている。

 それは、永遠に見たいと望む夢。

 心地よいこの世界を、私は永遠に見ていたい夢。


 夢を、私は見ている。

 それは、私が全てを生み出せる夢。

 どんな物でも、どんなことでも自由に想像できる夢。


 夢を私は見ている。

 それは、私が逃げるための世界――。



「おい、授業を真面目に受ける気があるならさっさと起きろ」

 パシィン!!

 頭を思い切り叩かれたせいで、私――柳備 尚香(ヤナビ ナオカ)は夢の世界から強制的に引きずり出された。


〜あるクラスの、ある風景〜



 頭を教科書で叩かれ、私は突っ伏せていた体を起こすと眠たい目をこする。
「っ……。何、今の? 今が体罰禁止の時代だと知っての行動?」
「聞こえとるぞ……」
 私の目の前で何処か気だるそうなオーラを放出させながら私に忠告する、筋骨隆々の先生。
 二、三視界を周りに動かして、今が何をしていたかを確認する。と、隣の席の生徒が私に声をかけてきた。
「1時間目の、奉先(ホウセン)先生の授業で寝るなんて流石尚香だね〜」
 何処か軽い調子で私に話しかけてくるのは弐喬 陽花(ニキョウ ヨウカ)。茶色みがかった長い髪をポニーテールにした、何処か幼さを残しすぎた感じの女子生徒。
 ……そうだった。陽花に言われて今がどんな状況下にあるのかを脳内で確認する。確か1時間目で世界史だったはず。
 ボブカットの頭を軽くかき回す。
「……やっぱり“在りし日の思い出”みたいにはうまくいかないのね……」
「何の話だ、そりゃ?」
 私の呟きが聞こえたのか、後ろの生徒にシャーペンで背中をつつかれた。流石に振り向くわけにはいかないので、体を少しだけ後ろに倒して返答する。
「こっちの話よ。別に気にする必要はないわ」
「ま、いいけどよ」
 どうやら素直に割り切ってくれた様子。と、
「おいそこ、仲良く話すのは別にいいけど、時と場合をわきまえろよ? とりあえずここの問が分かるか? 分からなくても答えろ」
 先生に言われ、私の後ろの席の生徒――孫原 策(マゴハラ サク)はバネ仕掛けの陽にぴくりと手元のプリントに目を落とした。
 ……なんて無茶苦茶な先生なのよ……。アレで私たち2−5の副担任なのだからビックリ。
 プリントは所々空欄になっていて、一体何だか分からない。そもそも、どこを当てられているのかが分からない。隣の席の陽花に目配せする。
「ん? どこだかわからないの?」
「うん、そんな所」
 小声で会話。すると陽花は自分の腕をずらして、今どこまで進んでいるかを指さした。
「……明治……維新?」
 そういえば小学校でも習ったような単語。一体どんな内容だったかしら?
「つーわけで孫原、ここの問を答えろ」
「俺かよ!? えーっと……?」
 不意に指名された後ろの席の生徒。一応ずっと起きてたはずだから、授業の流れである程度分かるはずだけど……? 寝てた私が言う資格も無いけど。
「アヘン戦争と徳川倒幕のつながり…………――――」
 孫原は長い間逡巡している。そういえばそんな話を前回の授業で聞いたような聞かなかったような……。

「無い!」
「あるから訊いてんだろ、アホ」

 いつも通り、孫原はやってくれたわね……。このクラスが吉本新喜劇と呼ばれる所以、それがこの生徒のボケと先生のツッコミにある。
 この通り、生徒はボケるの。それに先生は律儀にツッコムもんだから……。
「ったく、じゃぁ……洸績。孫原の代わりに答えてやれ」
「はい」
 呆れた先生が額に手を当てながら、他の生徒を名指しした。このクラスは、最終的に誰に先生が指名するかは決まっている。普段から授業をまともに受けない私たちや――。
「アヘン戦争で中国が負けた際、日本は相当の衝撃を受けました。今まで中国は強力な国家だと思っていたのですが、列強であるイギリスはそれを破ったからです。屈強な苦を破った列強に逆らってはいけないと思った……。こんな感じです」
 ――もしくは、正解を答えてくれる生徒。今の洸績 凌斗(コウセキ リョウト)何かがその例ね。
「そんな感じだ。日本国内では討幕運動もあったりと幕府はガタガタだった頃にこんな事が起こったり、ペリーが黒船で大砲をぶっ放したりいろいろあったから開国し、倒幕したわけだ」
 いつもにこりとした表情を浮かべている洸績は席に着く。ちなみに孫原の左隣だったりする。
 先生は割と関心なさそうにチョークを走らせ、1854年( )と1858年( )と書き込んだ。
「……で、開国する際にそれぞれこの年に条約を結んだわけだ。今度は柳備と弐喬答えろ」
 他の生徒に当たってくれないのかしら? とかそんなことを願っても何も始まらないわけで、とりあえず私は教科書をめくって答えを探すことにした。
 で、二人の答え。

1854年(南京)条約
1858年(    )条約

「……まぁ、南京条約は適当にめくったページにちょうどあったから書いた程度なんだろうな……。アヘン戦争の条約だからそこまで年月も遠くないが……。
 で、もう一方は回答放棄か。あれだけ必死に教科書をめくっていたのにもかかわらず見つからなかったから諦めたわけだな。ある意味男らしいぞ、柳備」
 ……私はれっきとした女よっ!!
「正答は日米和親条約と日米修好通商条約だ。間違ってもこんな覚え方はするなよ」
 あれだけ酷いことを言われたあげく、反面教師に仕立てられた。
「ちなみに、この条約は不平等条約と呼ばれているが……孫原と洸績、一つずつ答えろ。まずは洸績からだ」
 先生の指名にがたりと体を震わせた孫原と、全く動じずに笑顔を浮かべている洸績。
 洸績が先に立ち上がる。
「関税自主権の欠如、です」
「正解だ。意味ぐらいは他のヤツも知っていると先生は願いたいな」
 さらりと答えて席に着く。ちなみに私は意味を知らない。
 次は孫原の番だけど……。
「………………」
 黙々と考え込んでしまっている。考え込んで考え込んで……。
(治外法権の容認ですよ、孫原君)
 洸績の回答――別名、神の声が孫原を救った。孫原は言われたとおり回答する。
「治外法権の容認です!」
「……意味は?」
 絶望再び。まるで石像のようにぴたりと固まってしまう。やっぱり考えたあげく……。

「意味は各自調べるように!」
「まずお前が調べろ」

 先生のツッコミ、再び。先生はため息を吐いた後『日本国内で事件を起こしても、その犯人の出身国での裁判になる』と簡素に説明した。
「それでまぁ、列強が日本に入ってきたりするわけだが、その結果日本近辺のクジラがアメリカに乱獲されたりいろいろあった。で……」
 先生は黒板に日本地図を書いた。そして、東北地方の東側に丸印を付ける。
「ロシアはこの海域である海獣を取っていた。一応秩序とかは守ってたが……。で、ここで取られていた生き物を答えろ。毛皮とかに使われてたことを踏まえて……弐喬」
「魚?」
「魚に毛皮があるなら是非先生に教えて貰いたいものだ。次、孫原」
「ゴジラ」
「海獣の意味をここまで見事にはき違えてくれるとは流石だな。柳備」
「イルカ?」
「だから毛皮を持ってこい」
 ……だって、海獣じゃん。
 このクラスが吉本と言われる所以その二。それはこういったボケの押収が巻き起こるから。特にこういう説明は起こりやすい。過去には――。


「日本で主食として用いられる穀物を答えろ」
 という問に対して。
「魚?」
「どんな魚だ? 弐喬、言ってみろ」
「えーと……小さい魚?」
「どんな小さい魚だ?」
「メダカ?」
「……次、洸績」
「米、ですね?」
「正解だ。次、孫原」
「魚だな!」
「またか……。次、錦場」
「米!」
「いい加減シバくぞ?」


 こんなやりとりまで起こったことがある。あのときは陽花が寝てたから仕方ないのかもしれないけど……。
「カツオ!!」
「だからいい加減魚から離れろ……次」
 次と言われてさされた生徒は立ち上がると。
「キツネ」
「とうとう毛皮にたどり着けたことは褒めてやるが、海中を狐が泳げると思うか?」
 すでに異次元へと突入していた。これは正答を誰かが答えるまで止まらない流れね……。自分も間違ってたけど。
「ミンク」
「これまたピンポイントな生物を抜擢したな。そいつが海水で耐えれるかをよく考えて回答するように。次」
「ミント?」
「とうとう哺乳類から離れたぞ。何だ? お前のよく知ってるハーブは海草だったのか? 次」
「ミトン」
「無機物か。次」
「バトン」
「……法則性が読めてきたぞ。1文字変えてどうする。俺は授業にそんなクイズを取り込んだつもりはなかったのだが……、孫原。軌道修正かレポート10枚かどちらか選べ」
「………………」
 回答に困っている様子の孫原。多分、元の質問を忘却しているのかもしれないわね……。証拠に、ちらりと隣の洸績に助け船を求めている。
 すがるような視線を感じて、洸績はぽつりと一言伝えた。それが答えであると確信して、孫原はハッキリと言った。

「ベムスター!!!」

 孫原のレポート10枚が確定した。


 そんな宇宙生物の名前を出しちゃえば、当然そうなるわけであって。
「おいこら凌斗!! なんでそんな間違った回答をさせたんだ!!」
 乱暴な口調になりながら怒鳴り散らす孫原。どう考えてもバレバレの嘘を教えた当の本人、洸績はと言うと……。
「まさかそのまま答えるとは思わなかったので。というか、どうしてそんな分かり切った嘘を言ったんですか?」
 にこりとした表情――もういっそ糸目と言うべきかしら――を絶やさぬままに。
「いつもの事だから反射的に言ったんだよ……。これでクラブの時間台無しじゃねぇかよ……」
「すごい反射神経だね? 何とかの犬みたい」
 落胆して、がっくりと肩を落とす孫原。その様子を見ていた陽花は楽しそうに呟いた。
「パブロフの犬ですね」
「あー、律儀にツッコムね、洸績」
「性分ですから」




「あー……、あれだ。授業に戻るが……孫原、なんで灰になってんだ?」
「へへ……燃え尽きたよ。真っ白なhighにな……」
「ハイにならないように。せめてちゃんとしたashになってくれ」
 何かのネタだったのかしら。
「じゃあ、その灰になった孫原。いい加減答えを言え」
「………………ゲフッ」
 後ろの席で一人の生徒が、地獄に堕ちる音がする。実技ならともかく、座学で吐血する人間なんて、私は初めてだった。
 そんな初めての生徒を生み出した、奉先先生はというと……。
「これ以上やってるとテスト範囲までたどり着かないから洸績、いい加減答えを頼む」
 冷静に生徒の一人を見捨てていた。その言葉に少しのどよめきも起きないこのクラスに疑問を持ったことは、一度もない。
 指名された洸績が席を立つ。
「正解はラッコです」
「……こんな単純な回答に至るまでにどうして15分もかかったのか、誰か教えてくれないか」
 それはこのクラスだったからですよ、先生。


 その後も授業は何の変哲もなく進んだ。未だに孫原が起きあがらないけど、ある意味いつも通りの光景だから私は流す。
「……っぷはぁっ!」
「あ、生き返ったのね?」
 と、突然後ろの席で孫原が文字通り息を吹き返した。一瞬授業が止まったけど、そのまま進める奉先先生はある意味流石だと思う。
「澄み切った川で死んだ叔父に出会ってきた……」
 それはマズイ、としか言いようがないわね……。完璧に死んじゃってるじゃないの……。
「ねぇねぇ、三途の川ってどんなのだった?」
 私の隣の席の陽花が楽しげに話しかける。その問に孫原はというと。
「ああ……叔父が川から現れて無理矢理水中に引きずり込んできやがった……。死ぬかと思ったぞ、オイ」
 アンタは軽く死んでるっての! とは言えなかった。てか、そんなアグレッシブな臨死体験且つ死してなお殺そうとする身内は私から願い下げだった。
「とても寂しがりのおじいちゃんだったんだね〜」
 陽花は暢気に話を進めている。それ、寂しがりとは違うんじゃないの? てか、絶対違うわよね、陽花!


 と、ここでチャイムが教室中に鳴り響いた。先生の号令もそこそこに、一斉に立ち上がる私を含めた生徒達。
 奉先先生は黒板を一別し、予想以上に進まなかったからだろうか、溜め息を吐いた。先生、このクラスでまともに進めようとすることが間違いだって……。
 異様に力の抜けた言い方で礼をかけると、生徒は思い思いの場所へと蜘蛛の子を散らすように移動していく。それは孫原も例外ではなく――。
「孫原」
「……えっと、先生、何ですか?」
 冷や汗をたらりと流し、油の切れたブリキ人形のようにぎこちない動きで先生の方へ首だけを動かす孫原。私と陽花、洸績はこの先の展開が何となく読めてるから苦笑いと愛想笑いで受け流す準備をする。
「約束通りレポート用紙10枚だ。次の授業までに俺の所に持ってこい」
「ちっ……。で、今回のお題は何ですか」
 凄く面倒そうな態度で用紙を受け取り、先生の返答を待つ。すると先生は、
「今回の授業の内容を纏めろ。後8分内に持ってこい」
 それだけ言うと先生は部屋から立ち去っていった。何となく、不思議なことを言っていたような気がするのは気のせいかしら?
「今、はっきりと後8分と言いましたね」
「次の授業ってそっちかよ! オイコラ先生、ちょっと待て!!」
 言葉の異常性に気づいたらしい孫原は大声を張り上げた。残り時間じゃ、天地がひっくり返っても無理なのは火を見るより明らかね……。
「策も大変だね〜。あたしは手伝えないけどね?」
 まるで他人事のように(実際に他人だけど)言葉をかけた陽花は楽しそうに笑みを浮かべている。
「………………出来るわけ、ねぇだろ――――っ!!!」
 フルフルと体を震わせ、孫原が叫び声を上げたところで時計は次の授業までの時間を後五分の所を指し示した。私たちはそれに気づくと、机の中から古典の教材を引っ張り出す。
 このまま、孫原は大変な目に遭うんだろうなぁと思いながら、私は次の授業のことを考えることにした。



投稿小説の目次に戻る